外では理不尽なことをされても基本怒ったことがない。我慢してるとかではなく、もはやそういう感情そのものを発しないよう自然にコントロールされるよう育っていった。

 

けれど

怒ることはいわゆるクレーマーじゃない、

怒る(ように見える)こと=きちんと伝えることも大事なのだと日々思うようになって。

 

きょう身内でもない他人にはじめて怒った。私はほんとうに、その人のためを思って、、

でも、私「ウザい奴」じゃないかな?めんどくさい奴だと思われてないかな?などと心配になってさらに消耗する。

被害を被っていたはずの人は、また損をする。


怒られる人以上に

怒る人は、傷ついている。

 

 

レッスン中に泣いてしまった…


言葉を変え、手を変え品を変え

何回も言われてもこんなに分からないことって最近あっただろうか、

ホントなんでこんな難しいのか。

あぁ、できない、

何回やったって、きっとできない

途端に思ってパニック状態になってしまった…。


ちょっと頑張ったぐらいじゃ無理なのかも。

でも、もっと頑張るためのキャパをどうしても確保できない…

 

 

聞きたい、話したい、

語りたいことはたくさんあるような気がするけれど

たぶんいざとなるとなんも言えなくなると思う。

あたまのなかで、頑張ろう、頑張ろうと反芻しても

きっとなんにも言えない。

 

言葉にならない気持ちは、別のなにかになる。

そういうものと静かに向きあっていく。

 

 

 

 

しんどいよ、

全部ちゃんとしなきゃいけない、

仕事をがんばるだけじゃなくて、やりたいことやるだけじゃなくて

家族の時間もちゃんとして迷惑かけないように。いつも気を抜かずに。家にかえっても気を休めない。ずっとちゃんとしている。何も言われないようにかんぺきにする。

グチがニガテ、っていうグチになってしまうのだけど…

 

 

世代間ギャップ、性格の違い、コミュニケーションの取り方の違い。

上司に対して思うことはいろいろある。


だけど、そういう愚痴にあふれた会話はあまり好きではない。


そもそも悪口自体が苦手で、理由は

①自分がつられてその場で誰かを悪く言ったことだって、後で言いふらされないとも限らない

②この人は違う場で私の悪口も言ってるのではないか?と考えてしまう

ということ。

極端にいうと、相手を信用出来なくなるから。

(お互いの共通のコミュニティに属してる人の悪口が苦手、ってことであって、

例えば学生時代の友達と上司のグチを言い合うことはそれにあたらない。)

 

若い女性の上司とふたりでランチや夜ご飯を食べに行くと、必ず嫌な上司の話になる。

悪いのはだいたいその嫌な上司なんだけど、

話を聞いてるだけでなんだかげんなりしてしまう。

ご飯が進まなくなって、無理して口に入れ続ける。

 

お酒ならともかく、食事くらいは美味しく食べようよ…と思ってしまう。

そんな気持ちが滲み出てしまっているのか、

「わたしの言うことって間違ってるんですかね?」

「こういう話って、しないほうがいいですか?」

「話したくてしてるわけじゃないんですけど…」

「悪口とか苦手で…でも溜め込んでたら…病院の先生から注意されて云々」

などと一見気を遣ってくれるんだけど、

そういう言葉が、かえって余計にタチがわるいと感じる。

NOと言えない雰囲気を作ることに成功してて、

さりげなく空気のマウントを取られてる(うまいことは言えてない)。


相手が求めてるのは、自分の鬱憤に共感してくれることであって、建設的に話をすることではない。

勢いよく「ですよねー!ホントウザいですよね!!」と同じテンションで接するのが正解なのだ。


以後、その女性とご飯=愚痴会、と心の中で結びつけてしまって、同行するのがゆううつになってしまった。

わたしが愚痴って発散するタイプではないからなのかもしれない。

愚痴ったことでスカッとはしないし、むしろもやもやを引きずってしまうだけ。

会社で嫌なことがあったら、オフィスを出た瞬間にイヤホンを装着して好きな音楽を聴き続ける。これで家に帰るまでに忘れるように心がけている。

 

そんな自分が正しい、と思っているわけではない。

女性は愚痴を言い合って友情や絆を深めてく部分が少なからずある。(だからわたしは女性の親友があんまり多くないのかもなぁ…)

本音をさらけだせること・言い合えることは大事だなって思うから、

そういうコミュニケーションをわたしは否定しないし、理解できる。


それでも、

人と前向きな目標や理想を(意識高くではなく)ナチュラルに語り合えて、

こうしていきたい、どうすればよくなるのか?についての話をしている時間・そういう話ができる人との関係のほうが心地よいなと思う。